The Personal Marking on F-105F (62-4414) by U.S.Net 
↑ 撮影日は不明であるが、リッチモンドで撮影されたF-105F/62-4413。一つ上写真の空飛ぶ金床から”the flying Dutchman”に書き換えられた。書かれた後、本機のパイロットとバイリー軍曹との記念撮影された写真が残っているが、小柄のこのパイロットの祖先がオランダからの移民だったのかもしれない。プロペラに見立てた風車、チューリップとカメラを持ったオランダ人・・・なかなか面白い構図である。
The Personal Marking on F-105F (62-4413) by U.S.Net 
↑ 1980年2月にリッチモンドで撮影されたF-105D/62-4353。この機体には胴体下に大きな650ガロンの燃料タンクが装着されている。ベトナム戦争時代は、こうしたセンタータンクの場合は、主翼パイロンに爆弾を付け、主翼に450ガロンの燃タンを付けた場合は、胴体下のラックに爆弾を抱えて出撃している。元々 ソ連の核ミサイルサイロに1発必中の核爆弾をブチ込むために開発された戦闘爆撃機であった為、航法装置も火器管制装置も核攻撃用に作ってあり、非常に素晴らしい精度を誇っていたが、ベトナム戦での通常爆撃には当初全く役に立たず、通常爆弾用の火器管制装置をつけ直したとされる。
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F-105's Page
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↑ 1978年9月にリッチモンドで撮影されたF-105D/62-4384。同機(コールサイン”Tamar 31”)は、1981年3月10日にノースカロライナで墜落して、パイロットのジェームス・ガンターJr.中佐は亡くなっている。トス爆撃訓練で投弾直後に機体が発火し、射爆場近くの雑木林に墜落炎上したとの事。
149th TFS Virginia ANG
F-105D/F (1971~1982)
同隊のページも4枚目になるが、149th TFSには、ワイルド・ウィーゼルのF型もいたので、それも含み最後のページを纏めてみたい。各州空軍F-105D飛行隊には数機ずつ複座型のF型が配備されていたようで、ワイルドウィーズル訓練の為ではなく、恐らく新人教育の必要性から複座型の配備が必要だったのだろう。複座のF型は、D型より胴体が30..5インチ(78㎝)長く、垂直尾翼も9.2インチ(24㎝)ほど延長されている。複座型Fは訓練用として当初造られたが、後部座席からの前方がほとんど見えない為、訓練機としては評判が悪かった。只 ワイルドウィーズルに改装された機体の場合、後方席は電子機器の操作に集中出来る為、反って都合がよかったそうである。
↑ 1980年2月にリッチモンドで撮影された複座型のF-105F/63-8362
The Personal Marking on F-105F (62-4413) by U.S.Net 
↑ 1978年10月にリッチモンドで撮影されたF-105F/62-4413。”Flying Anvil Ⅱ”。Anvilとは、最近あまり見かけないが、鍛冶屋が金属を加工する金床の事である。このノーズアートは、後に↓のノーズアートに書き換えられた。
The Personal Marking on F-105F (63-8362) by U.S.Net 
↑ 1978年9月にリッチモンドで撮影されたF-105F/63-8362。”Do it With FINESSE” 兜をかぶった巨人がSAM-2ガイドライン地対空ミサイルを鉄球で叩き落そうとする絵柄である。F-105Fの任務が対レーダーサイト破壊と地対空ミサイルの発見と破壊だったので、”Do it With FINESSE”(見事な腕でやり遂げる)を期待して書かれた?・・・
↑ 1978年9月にリッチモンドで撮影されたF-105D/62-4414。”Ridge Runner”の文字と飛行するサンダーチーフの絵柄。山並みを駆け抜ける者とは、敵レーダーサイトを探して低空を駆け抜けるF-105Fを意味するものか?・・・
↑ 1976年11月に撮影されたF-105D/62-4229。後方の機体を見ても、1976年当時はまだバーナード・バイリー軍曹のノーズアートは無かったようであるが、バイリー軍曹自身は1972年のF-105D/F配備から、機体の塗装保守や部隊マーキングには携わっていたようである。因みにこの60-4229は、1970年には、355th TFW / 357th TFSに所属し ”RU”のテールレターを付けて北爆に参加していた。バージニア州空軍に配備されて後の1977年8月31日にサウスカロライナで墜落して失われている。幸いなことにパイロットは救助されている。